でいりいおくじょのBLOG

2024.06.16

読書日記「朝のあかり」

読むとかくのエッセイ教室

新タームが始まって

今回のタームのテキストになっている本を読みました。

 

「朝のあかり」 (石垣りん著  中公文庫)

 

石垣りん

 

この教室に通っていると

石垣りんの名前はよく耳にするんですよ。

 

でも世に言う詩人だと思っていたし

私には関係ないと思っていて

本当に全く興味ありませんでした。

 

詩はわからないって思ってたし

詩人って言う肩書の方が書いている詩って、なんか遠いじゃないですか。

 

なので、数か月前にはじめてこの本を手にして読み始めた時も

銀行員をしながら文章も書いてこられた方なのね

位の認識だったのです。

 

ところが

別の講座で永瀬清子の詩に出会って

文字通り雷に打たれまして

詩という大きな穴に落ちてしまった感じ。

もう抜け出せない。

 

その勢いで

石垣りんさんの詩集

「わたしの前にある鍋とお釜と燃える火と」

を読んだら

 

またしても雷落ちました。

 

中でも、この詩集のタイトルにもなっている詩は

しばし過呼吸になりました。

 

なんだろう、この感じ。

 

永瀬清子の詩に感じたぞくぞく感とは違う

もっと、自分の中の自分自身に近いところで共鳴している感じ。

 

石垣りんの詩って、全てそうなんですよね

距離感がものすごく近い。

近いから、自分の中のものすごく近いところが反応するんです。

 

さて、このエッセイ集「朝のあかり」ですが

 

あらためて読み直しました

(最初の方だけ読んで、そのままになっていたのです)

 

まず驚いたのは、

なんてストレートに思ったことを書ける人なんだろうという事。

時にそこに、芯の強さがあって

自分は書くことで生かされているという覚悟さえ感じました

 

4歳で母を亡くし

その後、父が再婚したことで3人の母をもち

途中戦争も体験し

銀行に就職して、家族を養い

やがて、家を出てマンションを買って独り暮らし

定年退職してひとり暮らし

 

というような、彼女の人生をエッセイを読みながら追うことになります

まさに女の一生が、そこにあります。

 

それを、隠すことなく

本当にそのままに、ストレートに描かれているところが心に刺さります。

 

上手く書こうとしていないことで

よけいに伝わることがあるのです。

 

そこが、すごいなと思い

そういう意味では、すごく学ぶことがありました。

 

彼女な自分の詩を生活詩と呼んでいて

(私が知らないだけで、もしかしたら、そういうジャンルがあるのかもしれません)

まさに、彼女が書こうとしているものは

生活、あるいは彼女が生きているというその事。

 

普通の人であり続けることを自分に課し

普通の言葉で書き続けている。

 

人生というような、大上段に構えたものでなく

毎日毎日、一生懸命に生きている、その暮らしそのものを書こうとしている。

 

真摯に生きて、真摯に書くことで

その日常が、見えない光を帯び、見えない豊かさで包まれる

 

普通だけど、普通じゃない

当たり前だけど、当たり前じゃない

 

一つ一つのエッセイも素晴らしいんだけれど

この本のエッセイを通して読んだ時に浮かび上がってくる彼女の人生にも

何か、深く共鳴するものがありました。

 

この本はエッセイ集なのですが

石垣りんさんの詩もすごく良くて

どれを読んでも共感します。

 

好きな詩はいくつもあるんだけれど

 

最近妙に気に入っているのは

「しじみ」と「女湯」(石垣りん詩集 岩波文庫)

 

石垣りん2

 

夜中に目が覚めて

砂抜きしているシジミを見た時の詩で

 

この詩を読んでから

シジミを見るたびに、この光景を思い出します。

 

「女湯」は

元旦の夜中の女湯の光景を書いているんだけれど

それが、ボッテチェリのヴィーナス誕生の絵を彷彿させて

おお~~~って、思う。

笑いがこみ上げるって言うのも、ちょっと違うんだけれど

日本にもヴィーナスいるなあって思う。

すごい。

 

そんなわけで

最近は、石垣りんにどっぷりハマっています。

 

明日の教室は、そのエッセイ教室なので

どんなお話が聞けるのか、楽しみ楽しみ。

 

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