家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
明日大阪で仕事があるので
今日から京都に入り
大徳寺に行ってきました。
なぜ大徳寺かというと
今、京都冬の旅で公開されている大徳寺の総見院を見るのが目的です。
昔、大徳寺のそばに住んでいたことがあるので
そういう意味では、大徳寺はとっても懐かしい場所です。
でも、その時から思っていたんですが
大徳寺って、本当にTHE禅寺って感じで
空気がピンと張りつめてきて、なんとも言えない緊張感があるんですよ。
なんか、気持ちがしゅっとなる。
それは、大徳寺が歩んできた歴史にも関係しているのかな、なんて
勝手に思っていたりします。
大徳寺は
後醍醐天皇の勅願寺だったので
南北朝の動乱の波をもろにかぶっているし
応仁の乱で、ことごとく焼けてもいる。
その後一時期一休さんが住職になって、その人気でお金を集めて復興したり
大徳寺の歴史は、本当に波乱万丈です
そんな歴史の波風にも動じたりせず、凛としてそこにあるって感じ。
まさに禅寺!!
で、総見院です。
総見院というのは、秀吉が信長を弔うために大徳寺に建てた塔頭で
信長の死後、約一年くらいたって、
ここで大きなお葬式と弔いの大茶会を開いているんです。
それがどうした、と思うかもしれませんが
秀吉が信長の葬式をしたという事は,
ポスト信長は自分であると、世の中に宣言したも同然。
光秀を討って主君の仇討ちをしたことで、
秀吉が他の大名より頭一つ上に行ったのは事実だけれど
だからといって、ポスト信長であるという事を、
みんなが認めたわけではない。
あくまで織田家の血筋を継承して、織田家を復興させていこうとしている勢力と
それとは別に自分が天下を取りたい秀吉との
相容れない戦いが続いていたんです。
(映画の清須会議は、面白いのでお勧めです)
その後もすったもんだあって
権力を自分のところに束ねて行って
結局、大徳寺にお墓を作って、大々的にお葬式を決行することで
ポスト信長の地位を、世間に知らしめたってわけ。
秀吉は、やっぱり頭がいいわ。
事実、これ以降、秀吉側についている大名たちが、
こぞって大徳寺に塔頭を建てることになるんです。
大名たちが次々に贅を尽くして建物を建て、
襖絵や装飾品で飾り、庭を調え、茶室を作ったんです。
なので、大徳寺の境内は、よく見ると大名だらけ。
そう考えると、
やっぱり大徳寺って、
南北朝の動乱にも巻き込まれ
応仁の乱の被害ももろにかぶり
更には、本能寺の変の後の天下取りとか
千利休の切腹事件とか(金毛閣ね)
歴史上のいろんなことにかかわっていて
本当に数奇な運命のお寺だなあと思います。
だからこそ、大徳寺のこの凛とした感じ
THE禅寺って感じは
何事にも動じずにそこにあって、自らの力で悟りへと進む
禅宗の精神が表れているきが、ますますしてくるし
ここが観光地になって、キャビキャビしたときは
なんか、京都が根底から変わる気がする。
そうは絶対なるはずないとは思うけどね。
大徳寺の、なんとも言えず、張り詰めた空気感、
わたしはけっこう好きです。
大徳寺の入り口
金毛閣
この2階部分に利休の像が置かれたことで秀吉の怒りをかい
利休に切腹を言い渡しました。
総見院。
織田家一族のお墓があります。
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