家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
名作といわれている映画は
やっぱり見ておかねばと思ってみてみました。
「トゥルーマン・ショー」
トゥルーマンは、ごく普通に暮らしている保険会社のセールスマン
ところが、何かがちょっとおかしい。
何がおかしいかというと
彼の生活は隠しカメラによって撮影されていて
それが、24時間「トゥルーマン・ショー」という番組として放映されているんです。
生まれたときから、30歳になるまでずーっと
彼はこの作られた世界の中で成長し、ここの世界しか知らず
そのすべてを、世界中に放映されている。
彼の住む島も町も、番組のための作り物で
町に住む人の家族も妻も友人も、すべてエキストラです。
トゥルーマンだけが、その事実を知りません。
ところが、少しずつ自分の生活の中の不自然さに気づき始めるトゥルーマン
けれど
彼にしてみれば、何が違っているのかさえわからない。
この映画の面白さは
トゥルーマンと
この番組を企画制作した演出家と
放映されている番組を見ている視聴者と。
3つの視点から見ることができるところ。
どの視点から見るかによって、まったく違う感じ方ができるところが
この映画の、面白さだなと思いました。
例えば、トゥルーマンの立場だったらどうか。
生まれてからずーっとその中で過ごした人生が全て作り物だとしたら
いったいどんな気持ちになるんだろう。
友人も、妻も、家族も仕事も、すべて作り物だとわかったとしても
そこで起こった思い出も、彼にとってはリアルな人生で
それが嘘かというと、そのこと自体は本当なわけだし
だまされたと思うのかもしれないけれど
そこで過ごした時間は、すべて幸せなもので
それを否定する理由もない。
そうなると、不幸というのとは違う。
次に、演出家の立場ならどうか。
生後すぐから、番組と養子縁組をし
自分の子供の成長を見るように
ずーっと彼を見てきた。
エキストラの一人の女性が、この番組の演出家の男性に
彼に本当のことを隠し、外の世界があることも教えず、テレビでさらし者にして平気なのかと、問うシーンがあります
その時彼はこう答えます。
彼には普通の暮らしを与えてると。
事実、普通の人生を与えて、お金の心配もないし、妻も家族もいて
本人が、それに気づいていなければ、少なくとも不幸にはしていない。
このシーンを見たときに
ああ、そういう事かと思いました。
これはトゥルーマンの成長物語であり。
子育て、子離れの話だなと。
親は、自分の目の届くところに子供を置いておいて
危険が来れば、先回りして危険を取り除き
子供ができる限り幸せに、平穏に暮らせるように、気にかけ、手をかける。
けれど、子供はその中で幸せに暮らしているのだけれど
こことは違う世界があることに気づき、そこに行ってみたいと思うようになる。
まさに、それが大人になるための第一段階。
やがて、子供は、もがいてくるしみながら親の手の届かないところ行くための行動に出る
親は、いけないように、行かないように仕向ける
子供は、失敗を繰り返しながら、少しずつ親の目の届かないところに行けるようになり
やがて危険を冒してでも外の世界に飛び出していく。
自分の手の届くところで、できる限りの危険を取り除き
子供が安全に幸せに生きていくことこそが、子供にとって幸せだと親は思いがちだ
けれど子供を子供のまま、そこにとどめることは不可能だ。
自分の力でその殻を破るためにもがくこと、まさにそれが大人になるという事で
危険や困難に立ち向かいながら生きていくことを
そのじきがきたならば温かく見守ってあげなければならない。
演出家とトゥルーマンの関係は親と子供のそれのように思え。
そういう観点から見ると
まさに、子供が大人になっていく成長物語であり
これは親離れ、子離れの映画に見えてきました。
最後に視聴者の立場から見てみるとどうなるか。
今、現実にこの手の、似たようなリアルショー的な番組があり
それに、心配したり、怒ったり、ドキドキしたりしたりしています。
でも、心のどこかで、すべてがノンフイクションではないとわかっていて
一喜一憂しても、やっぱりどこか人ごとだと思っている。
となると、
真実って、いったいどこにあるのか。
それを突き詰めていけば
自分がそれを見ている事、
そして、それに対して感じた気持ちや思ったこと
そのことだけは間違いなく本物です。
自分が見て、感じたこと、考えたこと
そこだけは、間違いなく真実。
われ思うゆえにわれあり。
デカルト的だなあ。
なんとも哲学的な映画に思えてきました。
3つの立場から見ると、それぞれに違う映画に見える
私は、結局2回見てしまいましたが
2回見ても、やっぱり面白かった。
名作というのは、こういう事ですね。
これは絶対見たほうがいい、おすすめです。
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