家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
普段、新聞とか、ネットのブックサイトとか
常に面白い本がないかとアンテナを張っているのですが
そんな中、タイトルだけでガツンと来る本に出合いました。
「食えなんだら食うな」(関大徹著 ごま書房新書)
著者は曹洞宗の禅僧で、
実はこの本、一度絶版になっていたのを
復刻版として出版されたものなんです。
復刻版としてよみがえるほどですから
これはもう、間違いなく面白い。
読み始めたら、一気読みでした。
前半は、なぜ僧侶になったかという著書の半生が語られるんですが
それがまあ、壮絶です。
僧侶のおじさんから、僧侶になったら大好きなまんじゅうをたらふく食べられると聞き
禅寺に修行に入るのだけれど
来る日も来る日も麦粥ばっかり。
饅頭なんか、全然食べられない。
饅頭食べたかったら、一生懸命修行して偉い坊さんになれと言われる。
あまりのつらさに
逃げて家に帰るんだけれど、追い返され
覚悟を決めて僧侶の道に入る。
毎日托鉢に出て、そこでもらった米で粥を炊き
朝と昼のご飯にする生活。
托鉢で米をもらえない日は
朝も昼も、食事なし。
辛い毎日の中で、到達した悟りは
もともと、米粒一つ作れない自分なのだから
食えなんだら食うなということ。
食えなんだら食うな
辛くても
死なねんだら死ぬな(命があるなら生きろ)
この辺の話を読んでいると
東京に出てきたころのことを思い出しました。
あのころ、私も、とにかく貧乏でした。
食べ物を買うお金にも事欠き
豆を買ってきては、もやしにして食べ
大根も、人参も、白菜の芯もキャベツの芯も大事に水耕栽培で育てて、
葉っぱを収穫しては野菜として食べました。
乾物には大いに助けられました。
常温で保存でき、腐らせて無駄にすることもない。
栄養価が高いので、病気に対する抵抗力がつき
医療費の節約になる。
土鍋を使った保温調理もかなり研究しました。
余熱を使って調理することで、ガス代を節約できたのでした。
とにかく、あるもので工夫する
食べられるものは、少しでもおいしくいただく。
食えなんだら食うな、
でも、頭を使うことでかしこく食べられるんだったら、頭をつかえ
頭を使うのはただや!!
考えてみたら、あれも一つの修業だったのかもしれません。
あの時に、考え、経験したことが
そのあとの料理研究家として仕事をしていくベースとなりました。
その時は、ただただがむしゃらに生きていただけだったけれど
後から思い返すと、とっても貴重な経験だったりするんですよね。
著者の関大徹さんも、それから偉いお坊さんになって
人のため、世のために尽力されます。
それが、この本の後半に書かれています。
この本の最後に書いてある、著者の言葉がしゃれています
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人生六十から
七十代でお迎えのあるときは、留守といえ
八十代でお迎えのあるときは、まだ早すぎるといえ
九十代でお迎えのあるときは、そう急がずともよいといえ
百歳にてお迎えのあるときは、時期をみましたこちらからぼつぼつ参じますといえ
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いいねえ~。
こんな風に生きられたら、楽しいなあと思います。
私の人生は、まだ始まってもいなかったのかぁ。
今まだ、修行中。
そう思うと、まだまだいろんなことがありそうで、わくわくします。
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