家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
西加奈子作品の中でも、特に大好きな作品を
読みなおしてみました。
「通天閣」
(西加奈子著 ちくま文庫)
この作品は
心がちょっと折れそうになってしんどい時に読むと
なんかふっと心が軽くなって、前に進めそうな元気をもらえるし
そこから立ち直った後に読むと
あの頃の自分を客観的に見ることができて
また、違う元気をもらうことが出来る作品なのです。
ストーリーは、ちょっと説明しにくいのですが
通天閣の傍に住む「おれ」と「私」
俺は数年前に40歳を過ぎ、自分の子供や家庭を持つことをあきらめ
小さなアパートで、電池を抜いた時計に囲まれて暮らしている
私は恋人のマメと幸せに暮らしていたのだけれど
ある日、マメは映像の仕事という夢を求めてニューヨークに旅立ち
アパートに一人残され
スナックのチーフとして働き始める。
この2人に共通していることは
誰からも期待されず、誰にも期待せず
ただ毎日、自分の決めたことを淡々とこなしていること。
そんな「俺」と「私」の毎日が交互に描かれていきます。
俺は二十歳の時に7歳上の子持ちの女性と出会い結婚し
その子どもを嫌っていたわけではないのに
優しい言葉の一つもかけられないままに別れたという過去を背負っていて
それからは、有り金をはたいて日本中を転々とし
行く先々で時計を買っては電池を抜き
そのたびに、自分の人生の選択肢が減っていくことを感じている。
私は、毎日鏡を見ながら
別れたわけじゃないと自分に言い聞かす。
そして、スナックのチーフみたいな仕事をしているのはマメがいないからで
やっぱり自分がいないとダメなんだとマメが思い
自分のもとに帰ってきてくれることだけをひたすら願い続けている。
けれど、結局はマメは去ってしまう。
「生きている」のではなく
毎日決まったことを淡々と「こなす」だけの生き方が
俺にはピッタリだと諦観する俺。
夢にむかって頑張っていないとダメなのか
クリエイテイブな仕事をしていないとダメなのか
やりがいもないアルバイトを淡々とこなして
毎日マメのことだけを考えて生きている自分はダメなのか
キラキラ輝いていないのかと、問い続ける私。
「俺」と「私」は、なんの関わりもなく
そこに住んでいる人たちは
皆自分のことだけを考えていて
自分のを最優先するべきだと思っていて
他人の生活など興味もなく
他人と深く関わらないようにして生きているようにみえる。
けれど、物語の後半
ある一つの事件をきっかけに、
ばらばらだった物語と登場人物が
一瞬にして温かいつながりのあるものへと変わる。
というか、
そにあったものや、人の生き方や、つながり方は何も変わっていないのだけれど
ほんのちょっと、物の見方や考え方が変化しただけで
物事はそれまでとは全く違った様相を呈する。
それはたとえば、通天閣に明かりが点ったことくらいのささやかなことなのに。
自分の本当の気持や
実は一人ではなく、知らない所で多くの人に囲まれて
少なからず、この影響や恩恵を受けて、
ある意味守られながら生きている。
ほんの少し自分の気持ちや物の見方を変えれば
八方ふさがりだと思っていた人生や
一人ぼっちだと思っていた底なし沼のような孤独が
実は、そうではなく
そこに光や温かさがたしかにあって
それに気づきさえすれば前に進めるんだということに気づく。
別に大きな夢なんてなくてもいいし
人からキラキラ輝いているようにみえなければならないこともない。
坂道を必死で立ちこぎして自転車で登っていくことだけがすごいことじゃなくて
自転車から降りて、押して上がっていても別にいいわけだし
時に自転車を止めて、休憩したって
自転車をおいて、自分一人でゆっくり歩いたっていいわけで
生きていると言うよりは
ただ死ぬのを待っているような生き方
時に、そんな風にしか生きられないような時間があったとしても
それは、決して絶望ではなくて
その時にしか見えない風景があって
その時にしかわからない人の悲しさや苦しさや優しさや悦びがあって
それに気づくことこそが尊く
生きているということなんだと思えます。
爆笑しつつ、時にほろりとなり
読んだあとは、不思議とすかっとして
人に優しくなったり、元気になったり出来る本です。
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