家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」
2008年夏の講演会の記録映像
昨日Eテレでやっていたの、見ました。
吉本隆明氏と言えば
吉本ばななさんのお父さんと言うよりは
偉大な思想家というイメージのほうが強いですね。
個人的には
親鸞思想の代弁者みたいなイメージかも。
(歴史上の人物の中で親鸞は最も好きな人物の一人です)
『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)
『今に生きる親鸞』(講談社α文庫)
『悪人正機』(新潮文庫)
私が読んだ親鸞関係の本は
どれもなるほどと思う内容で
正直
私の頭でどれだけ理解できたかは別として
私の頭の中に親鸞の言葉や物の考え方がストンと素直に入ってきて
そんなふうに噛み砕いて、説明ができることが
すごいなあと思い
密かに思いを寄せていた方の一人でした。
今回放映された講演会
その独特な語り口がまた親鸞を思い起こさせる感じで
たとえ牛泥棒と思われようと
善人ぶるな、仏教者みたいなフリをするな
知を捨てて愚になれ
と言い続け、自らそれを目指した親鸞の生き様のようなものを
吉本氏の中にもまた、見えたような気がしたのでした。
講演の中で
一番心に残ったのは
言葉というものについて語っておられた部分。
言葉というのは、人と人とのコミュニケーション手段だと思いがちだけれど
言葉というものの根幹は沈黙であるとおっしゃったことでした。
それを植物に例えると
人に伝えたり、ひとりごとで発したりする言葉というものは
植物の葉っぱや花の部分でしかなく
その幹やその下の根っこの部分は、沈黙なのだと。
言葉にならないような思いのようなもの
それを聞いた時に
私が今まで料理に対して自分が思ってきたことが
ああやっぱりそうだった、という感じでスーッと納得できる感じがしたんです。
料理というと
味とか盛りつけとか
あるいは調味料の配合とか手順を含めたレシピ
そういうことが全てだと思われているけれど
吉本氏の言葉を借りるならば
ソレらは植物の葉っぱや花の部分でしかなく
それの根幹はやっぱり言葉にならない、ボワンとしたようなもの。
ボワンとしたようなものっていうのが
どう表現していいのかわからないんだけれど
味とか盛りつけとかレシピとか、
そういうことに行くつくまでの、想いみたいなもので
見えている部分は葉っぱや花の部分だけで
その料理の価値や評価は、その葉っぱや花で決まるんだけれど
でも眼に見えない幹の部分が、実はとっても大切で
それがなければ
感情のない言葉のようなもの
更にもっと大切なのは
その幹の部分がつながっている根っこで
その根っこがどこにつながっているかというと
それは、普通の人の普通の暮らしに繋がらないといけないわけで
そんなこと、出来上がった料理の美味しさとは殆ど関係ないように見えるんだけれど
でも実際は
そういう言葉にならない幹や根っこがない料理は
料理として、つまらない。
つまり
人の何の変哲もない普通の暮らしの上に
いろんな思いがあって
その思いを吸い上げて表現したものが日々の料理で
そんなふうに作られた料理は
眼を引くような素晴らしい盛り付けや特別な材料でなくても
雄弁に心に響く
沈黙の中の言葉
吉本氏の言葉の根幹は沈黙であるという話を聞いて
そんなことを考えた90分でした。
なんかかなり支離滅裂な文章になってしまいましたが
吉本隆明氏のご冥福を
心よりお祈り申しあげます。
コメント