家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
毎日、少しずつ読んでいる本があります。
「幸福論」(アラン著)
「自省録」(マルクス・アウレーリウス著)
この前、読むと書くの講座に出席したとき
「毎日2ページずつとか、2章ずつとか読んで印をつけていくと良いですよ」
って、先生がゆーてはったので
それ、実行してます。
私、けっこうまじめなんです。
アラン先生の幸福論は
「プロポ」と呼ばれる、コラムみたいなものを1冊にまとめたもので
一つのプロポが2~3ページくらいなので、すぐに読めるんです。
アラン先生は、このプロポをすごい数、書き続けた方で
やっぱね、ちゃんとしてるの。
どれを読んでも、はあ~~、なるほどね~って思う。
文章も旨いし、勉強になる。
これを読めば、いくら私でもアランちゃんとは呼べません
アラン先生と呼んでいます。
一方
「自省録」の方は、まあ日記みたいなものなんですが
文字通り、自分を顧みてはるの。
でもほら、そこは、皇帝で、超天才の哲学者ですから
日記なんやけれど、めちゃ賢いことが書いてあるの。
でも、これは、人に読ませるために書いたものではないから
先生って感じじゃないんですよね。
しかも、ちょっと遠い、偉い方って感じがものすごくする。
なので、一応、敬意を込めて(?)アウ様と読んでます。
(マルクス・アウレーリウスやからね)
どうしてこんなことを書いているかというと
心通じ合えないシモちゃんって
あらためて考えてみると、
やっぱシモ先生でもシモ様でもなくシモちゃんなんよね。
なんでか。
「重力と恩寵」って
そもそもは、シモちゃんのメモのように書かれた言葉を
シモちゃんがなくなった後、編纂したものなんですね。
つまり
シモちゃんにしたら、誰かに伝えたくて書いたものではなく
むしろ、自分の考えを整理するために書いたような言葉なんですよ。
という事は
シモちゃんにしたら
ちょっと思いついただけのことを書いてたり
その時はそう思ったけれど、考えが変わってるところもあるわけ。
だから、偉い先生の本を読んでいるって言う感じではなく
やたら難しいことを考えている友達の手帳をのぞき見しているような感じ。
だから、偉い先生の書かれたものって感じがせず
友達みたいに思ってしまうんじゃないかな。
となると
そういうことを抜きにして
シモちゃんの言葉を、最初から全部わかろうとしても
それは無理だわ。
シモちゃん自身、こんな風に本にされるって思っていない言葉なんだから
だから、シモちゃんとと心が通じ合えないんじゃなくて
そもそもこの本は、通じ合うための本ではなく
シモちゃんと一緒に考えるための本なんですよ。
シモちゃんが、これであっているのかって思っていること
これって、いったいどういう事なんだろう?って思っていること
一緒に考える本なんです。
おおおお~~~~~っ、なんか見えてきた。
それに気づいて、
この講座の趣旨をもう一度読み返してみたら
本当の意味で考えるという事
本当の意味で表現するという事を
考え直してみたい
って、先生、書いてはる。
おおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーー!!!!!
そういう事か。
考えて、それを言葉にする
そのために読む本。
そのためのシモちゃん!!!!!
なーーーーーるほど。
やるね、先生。
(って、お前が言うな!)
そんなわけで、シモちゃんとの付き合い方が少しずつ見えてきて
私は、今日無事、課題を書き上げたのでありました。
シモちゃんが使っている言葉をキーワードにして
それ、私やったら、こう考えるな、ってことを書いてみました。
全6回の1回目
最初やからね、まだしもちゃんとは距離があるし
まだ、じっくり会話していないので
まあ、1回目は、これで良しという事で。
たぶん、ダメダメやと思うけれど
まずは、提出した自分をほめる。
講座は1週間後
今度は、落ち込まずに帰ってくるつもりですが
また落ち込んだら、すんません。
アウ様って、ちょっとイケメン
コメント
奥薗先生、何回でも浮かび上がってください、落ち込む度に。哲学の道を歩きたい、加茂川の風に吹かれたい。アメリカにいて英語で読む古典文学、京都の街の名前は千年経ても変わらずです。進んでいるのか、停滞してばかりなのか、我ながら心もとない。溺れながらも頑張ります。奥薗先生のご健闘をお祈りします。
ありがとうございます!!
心強い、言葉、感謝です。
はい、この歳になると、落ち込むのも人生の楽しさみたいなところがあります。
文学も哲学も、人生の最後の時まで仲良く付き合っていきたいと思っています。
文学や哲学や言葉に興味を持っている人とつながるのは、今の私にとっては最高の幸せです。