家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日はエッセイ講座です。
1週間前に課題のエッセイを提出し
金曜日に全員のエッセイの添削されたものが送られてきて
金、土の2日間で全部読んで
日曜日の教室に挑む。
そんな感じ。
皆さん、素晴らしい文章を書かれるから
それにまず、おお~~~~ってなる。
でも、それと自分を比較して落ち込む
みたいなことは、さすがにもう、ありません
問題は、自分のエッセイです。
添削された言葉に
あまり反応しないように
と、自分に言い聞かせながら、見るんだけれど
先生の言葉をぱっと見ただけで、
ああ、ダメだったんだなってわかった。
明らかに、表面的なコメントしか書かれていない。
一応、自分なりには、できる限りの努力をしたんですよ。
早めの着手
早めに文字数多めのラフ的な文章を書き
そこから、言葉を削り
必要な言葉を足し
1ヶ月かけて、いろいろ手を加えて直したりして
自分では、真面目に一生懸命書いたのでした、
しかも
自分にとっては、とても大切なことを書いたから
そういう意味でも、丁寧に、真剣に書いたのでした。
でもまあ、真面目に書けばいいってもんでもないんだなって
事ですかね
バーッと、勢いで書ききった文章の方が
心に響くってことはあるし
何か、生き生きしたエネルギーみたいなものが伝わったりするからね。
先生の添削のコメントを読んだ瞬間に
これはだめだったとわかり
真面目に書いただけにショックが大きく
立ち直れなくて、これでは出席できないなあと思って
ぎりぎりまで休もうかと思ったのだけれど
でも、逃げてはいけない、と自分に言い聞かせ
決死の覚悟で教室に向かったのでした。
それでも、
一つ一つ、エッセイを読みながらコメントをされる時に
何か一つ位は、ここがヨカッタ的なことを言ってもらえるかと
淡く最後の期待をしていたのですが
はっきり言って、それもなく
むしろ、さらっと読み飛ばされた感もあり
つまるところ、一つもいいところがなかったようで
さらに落ち込む私でした。
悪い所を指摘された方が、まだ救われるのよね。
実際、ここをこうした方がって言われたことで
すごく勉強になったって言っている人はいます。
私も、よくないところ、教えてほしかったわ。
正直、
一生懸命真面目に
大事なことを書いただけに、
おおきく落ち込んだわけで
一生懸命や真面目なんて
エッセイのできとは全く関係ないし
仕方ないじゃないか、それが才能ってもんだよって、自分に行ってみるけれど
なんか、落ち込むために教室に行っているみたいだなあ
って、急にむなしくなり
もう、教室に行くのはやめようかなって思った私でした。
そうしたら、
いつも一緒に参加している友人が
「今日のエッセイすごくよかったね」
って言ってくれて
もう一人別の友人も
「ああ、あのエッセイ良かったです」
って言ってくれて
その事で、最後救われました。
この人達は神様かと思いました。
大げさでなく、生きていてもいいよと言われた気がして
優しさが心に沁みました。
ありがとう、本当にありがとう。
さてさて、来週は詩の教室です。
また、落ち込むために書いて、
落ち込むために出席することになりそうです。
生きていけるかな。
何やってんだろう、私。
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