家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
なんで、詩を書いているんだろう?
って、昨日から考えています。
書かずにはおられないようなことなど何にもないし
世の中から詩がなくなっても、私はたぶん大丈夫。
だって、1年くらい前まで、詩のことなど全く考えずに暮らしていたわけだし。
これが
本を読むとか
文章を書くとかだったら
そうじゃない。
やらずにはおれないと思うんですよ。
エッセイだったら
別にどう思われようが、どんな出来であろうが
やっぱり書き続けると思うんです。
でも、詩は無理だと思うのはなんでだろう?
例えば料理で考えると
一所懸命作った料理を
手つかずで残されたとして
それがエッセイだったら
別に、平気でいられる。
いや、多少は、なんでやねん?って思うけど
その料理の出来不出来は、自分がわかっているから。
上手くできていなくても、どこがまずいのかを、自分なりに理解できると思うから。
でもそれが詩だったら
なんで、一口も食べなかったんだろう?
何が悪かったんだろう?
って、途方に暮れる。
なぜ手もつけずに残したか
見た目が悪かったのか
素材がダメだったのか
盛り付けがアウトだったのか
冷めていて、ダメだったのか
あるいは、食べる人の方に好き嫌いがあったのか
そもそも、そういう料理法が嫌いだったのか。
いろいろ悩んで落ち込むと思う。
まさに、それ、今の状態。
ここまで書いて、気づいたんだけれど
詩は料理と違って
誰かのために書いているのではなく
自分のために書いている・・。
そこが料理と違う。
だから、料理たとえは、ちょっと違うのかも。
でも、こういう教室で添削をしてもらうとなると
やっぱり、誰かに料理を食べてもらうのと
少なからず、状況は同じじゃないかと思うから
やっぱ、同じように思ってもいいんじゃないの?
不味いなら不味いと言ってほしい
そして
できれば、どう不味いのかを教えてほしいと。
いやいや、そんなことは自分で考えろ
自分で、これでいいという詩を書けるようなるまで
努力をしろ。
そもそも努力が足りないのだ。
もう一人の私が、私を叱る。
でも、先生に教えてもらいたいから
教室に行っているんじゃないのか。
もう一人の私が反発する。
その程度のことで努力したつもりになるなよ。
勘違いも甚だしい。
努力っていったい何なんだ。
詩に対する努力って‥。
そんなことよりも
何も語られなかったってことが
どういう意味なのかを察するのだ
そこで、心折れるなら、そこまで
乗り越えられそうなら、そこから。
そんなこんなで
自分の中のもう一人の自分と戦って
今日は、無駄に一日が過ぎました。
本当は、やることがいっぱいあったんだけれど
全部のやる気を吸い取られてしまったみたいです。
すくなくとも
気持ちが後ろ向きになるようなことに
エネルギーを使うのは、やめたほうがいい。
生きるとは‥。
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