家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
著者の久石譲さんと言えば
ジブリ音楽とか、北野武監督作品などの映画音楽でもおなじみの
世界的作曲家であり、演奏家であり、指揮者。
プロとして、尊敬できる作品を世に送り出し続けておられる方の言葉は
一つ一つが本当に心にしみる感じ。
タイトルのように自分が感動を作れるかどうかというより
久石譲さんの言葉に感動しまくりまして
何回も繰り返し繰り返し読んでいますが
何回読んでも、読むたびに新しい感動があり
なんかこう、背筋がピンと伸びて、頑張ろうという力が湧いてくる本です。
例えば、ものを作る姿勢には二つの道があるという話
一つは自分の思いを主体に、自分の作りたいものとか、自分の満足いくものを追い求める道
一つは、自分が何をもともめられているかを見据えて、商業ペースで考える道。
私自身、若いころは前者の考え方で
自分の料理を表現するということは、自分の思いを主体にして作りたいものを作ることだと思っていた時期がありました。
けれど、プロの料理研究家としてやっていく以上は
自分の認めてもらって、料理の注文をいただくということでもあるわけだから
いくら自分で満足いく料理を考え、作ったところで
それだけでは、趣味の域を超えることができない。
久石さんいわく
評価を下すのは、自分ではなく、発注主であり、世の中である。
だからと言って売れることだけに価値を置いていたのでは志として悲しい
久石譲氏的に言うならば
より完成度の高い、作りやすくておいしくて健康にいい料理のレシピを書くことで
結果、人に喜んでもらうことを自分の喜びとするということにする
ということになるわけです。
人の求めていることを真摯に受け止めて、そのニーズにいかにぴたっと答えるかが
プロとしての矜持となり
ものを作る側と受け取る側がウインウインの関係になる。
さらに、久石氏いわく
ものを作るという場合
画家は絵を描けば、それがそのまま作品になるけれど
作曲家の場合、書いた譜面がそのまま音楽の作品になるわけではなくて、
誰かが演奏したり歌ったりして、人に聞かせてはじめて作品となる。
このくだりを読んだときは
音楽と料理は似ているなと思ったんですよね。
家庭料理研究家の場合も音楽と同じで
書いたレシピが、そのまま完成品なのではなく
レシピを見た人が、実際にそれを作って、誰かがそれを食べて
初めて作品となる。
しかも、レシピを見る人は、かならずしも料理の基礎知識があるわけではなく
また、育った環境も、生活環境も違う。
自分の書いたレシピが自分の手から離れた後
そんな風に再現され、どんな風に食べてもらえるのか
実際、その現場を私が目にすることはないので
それが、料理レシピを仕事にする時の難しさであり
いわゆる料理人という方々とは、違うところなんですよね。
久石氏が、作曲家として、最もプライオリテイーを置いていることは
とにかく書き続けること、
なんだそう。
私自身も、最優先にしていることは
とにかく料理を作り続けること
それも、仕事を離れて料理を作り続けることなので
ああ、間違っていなかったと思って、なんだかうれしかったですね。
料理家、とか、料理研究家の場合は
料理することを、生活を切り離して仕事と割り切ることができるのかもしれませんが
少なくとも、家庭料理研究家の場合は
仕事として料理を作っているだけではバランスが悪くなる気がしています。
つまり、
日々の暮らしの中で、仕事ではなく
普通の一人の主婦とか母親とかという立場で料理を作り続けていなければ
料理に対する立ち位置が、微妙にずれてしまうような気がしているのです。
私は、たまたま仕事が料理というだけで
普通に仕事を持つ主婦であり、母親なのですから
今日の仕事を終えた後、家族のために、普通に料理を作る
そこの基本の暮らしを大事にして
日々淡々と料理を作り続けていくことが
家庭料理というものの普遍的な核心に近づく唯一の手段ではないかと。
自分で新しい発想をして、想像をしているという意識でやっていても
実際は、過去の経験や知識や、今まで聞いてきた音楽や仕事としてやってきた方法や
そういうものの蓄積が基礎となって音楽が生まれるのだそうです。
残念ながら、自分独自の感覚だけでゼロからすべてを想像するなどあり得ない、と。
料理も同じで
結局は、日々、仕事ではなく作ってきた料理と、
ワクワクしながらチャレンジした経験がなければ
ゼロから料理を発想することは無理で
更にいうと、
読んだ本とか、見た映画とか、出会った人とか、
多分、そういうこともすべて含めて、自分の発想の泉の中に溶け込んでいるはずで
まあ、突き詰めていくと、
結局は、日々の暮らしの中で、見たこと聞いたこと、
料理と関係あることもないことも
いろんなものをすべて発想の泉の中に溶かしこんでいかなければ
ぞの泉は、あっという間にかれてしまうに違いないということなんですね。
生涯、一つや二つ、いいものができるというのなら、だれでもできる
優れたプロとは、ハイレベルの力を毎回発揮できること。
ああ、久石譲さんの言葉は、心に重いけど
本当にその通り
次の形態を模索していかないと、継承だけでは続かない
この言葉も、私は、この本を読むたびに心に響きます。
家庭料理は、長い時間の中で継承されていくべきもので
家庭料理研究家というのは
そのために、どんなに便利な時代になっても
家庭で料理を作るということをし続けられるように考えるのが仕事だと思うのです。
けれど、それは単に、昔ながらの料理をそのまま継承するだけでいいのかというと
私は、違うと思っていて
それだど、家庭料理は先細りしてしまう危険がある。
だって時代や生活環境が変わっているのだから。
つまり、便利さや、日々の忙しさや、そういうものを否定しないで
まして、昔はよかったみたいなことでもなく
家庭料理の形態を、それに合わせて変化し続け必要があると思うのです。
それをどんなふうに、変化させながら、継承していくのか
その考えややり方を発信していくのも、家庭料理研究家の仕事だと思っています。
久石譲氏ほどの、すごい方でも
何度やっても、ああ楽勝だったということはなくて
毎回、自分の限界に挑戦されているそう。
いや、だからこそ、プロ中のプロになれるんですよね。
私も、まだまだ限界に挑戦し続けたい
この本を読むたびに、本当にそう思えて
やる気をもらうことができるのです。
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