家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
高校の国語で、文学が選択科目になるらしい。
先日の、天声人語で知りました。
文学が選択科目になるというのは、つまり
国語の授業で
実用文としての行政のガイドラインとか駐車場の契約書の読み方を教える
ということになるのだそう。
なぜ、言葉による表現の豊かさを教えないのか
という俵万智さんのことばには、すごく共感します。
100文字で100文字の内容を伝えるのが契約書で
100文字で100文字以上の世界を教えてくれるのが文学だと
たしかに、メールで何かを伝える時
100文字で100文字の内容が正確に伝わればいいわけで
いかに100文字の内容をきっちり伝えるか、ってことが大事になっている気がします。
スピーデイーに正確に伝えて、正しく理解する。
でも、それは文学とは対極にある。
効率が優先される世界では、よけいなものがどんどんそぎ落とされていくんですね。
本当に、それでいいんでしょうかねえ。
ちょっと話は違うかもしれないけれど
料理の世界も、似たような現象が起こっている気がしています。
材料と作り方を、端的にわかりやすくなっている
これは、悪いことじゃない。
でも、それがどんどん進んでいくと
料理の周りにあるはずの、大切なものまで、どんどんそぎ落とされていく気がしていて
文学が伝えようとしているものを、切り捨てるみたいに。
料理が持っている大事な部分まで切り捨てられていくようで心配です。
レシピに書かれている材料や作り方が、そのまま100%正確に伝わること
もちろんそれは大切なんだけれど
そこに書かれている事の、その先にある情景とか、気持ちとか、温かさとか、空気感とか
そういうものも、本当はとても大事で
料理と一緒に伝えたいことなんですよね。
レシピや、見た目だけが重要視されていくと
その大事な部分が、置いてきぼりにされそうで、心配。
料理を正確に伝えつつ
料理の周りにある大切なことも、きちんと伝えたい
日めくりレシピを書きながら、日々模索しているところです。
ベッドとカーテンの隙間を模索中
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