家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
最初、とんでもなく読みづらく
いったい、何を言っているのかさっぱりわからない本でした。
そもそも、いろんな書評家が絶賛していたということで興味を持った本だったので
自分には、あわないのかと思ったのでした。
スタッキング可能
(松田青子著 河出書房新社)
理解ができない、世界観についていけないという場合
内容や言葉自体が難解でわからないならともかく
日本語自体は難しくないのに、難解というのは
えてして、自分自身の先入観みたいなものが邪魔をしている場合が多く
(小説というのは、こういうものだというような)
それを一旦取り去って、俯瞰的な視点で読み進んでみると
ある時突然パーッと霧が晴れるように面白くなることはけっこうあって
この本も、まさにそんな感じでした。
そもそもタイトルのスタッキングとは、何を意味しているのか。
スタッキングとは、会議などの椅子を積み重ねて収納するようなこと。
つまり、スタッキングできるものは同じ仲間、あるいは同じ分類。
高層階のビルの中にあるオフィスは、スタッキングされた椅子に似ていて
そこで働く人々も、ある意味会社という分類でスタッキングされていて。
その人たちの個人特有のデター(たとえば名前とか年齢とか性格とか顔立ちとか服装とか)
を取り除き
ある種の分類(男か女か、見た目が可愛いか愛想がないか、おしゃれか、ファッションに無頓着か、とか)
によってスタッキングしたならば
どんな風に世界は見えるのか。
同じ属性でスタッキングされた集団と、そこに属していない集団は
話も合わないどころか、何を言っているのかさえ理解できない。
それはまるで、スタッキング不可能な椅子同士を積み重ねようとするようなもの。
スタッキング不可能な人間は、順応性がないのかと孤独感を持ち
かと言って、スタッキング可能な人間と認識された所で、
本当の自分はそうじゃないと違和感を持つ。
ある一つの共通項をもった人たちに対して、こういうグループというラベルを貼ることで
なんとか理解しようとしているのかもしれないし
また、その共通項を持たないほうは
その共通項を持たないということで連帯感を持ち、
ある種の安心感を得ようとしているのかもしれない。
けれど、どんなにスタッキングして、グループ分けをした所で
本当は、誰も自分を理解してくれないし、誰のことも理解できない。
大きく一括りにして、理解したような気になったり、安心したりしているだけ。
だからといって、
社会生活をする以上、何かによって分類されていくわけだから
そういう人間関係から目をそらして、かかわらずに生きることはもはやできない。
私自身のことを考えてみると
女、大人、母親、長女、仕事を持っている、京女
料理好き、出不精、下戸 方向音痴・・・・
というようなカテゴリーで分類されて
たくさん(本当はもっとたくさん)の
そういったカテゴリーが自分の周りに縦横に積み重なり
私というイメージが出来上がるのだろうけれど
けれど、それが本当は全てではなく
そのような言葉で表せるカテゴリーだけで私はできているのではなく
本当の心のなかはもっともっと複雑で
でも、それを誰かに事細かに、語ってわかってもらおうとも思わず
ただ、そのカテゴリーを城塞のように並べることで
自分自身を守っているところもある。
もちろん、分類するのは自分以外の人なので
自分の思っているのとは違うカテゴリーに分類されることもある。
そんな時は、もちろん、なんとも言えない違和感を感じる
大事なのは、それを声高に訂正することではなく
心のなかで密かにそれと戦い
そんなことで動じない自分というものを作っていくこと。
「わたし」という、確固たるものを作りつづける
その戦いは、きっと意味がある。
そんなことを、教えられた本でした。
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