家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
先日円空展を見に行って
梅原猛先生のことを書いたあと
梅原先生と五木寛之さんの対談集のことを思いだしました。
「仏の発見」
〈五木寛之✕梅原猛 学研M文庫〉
五木寛之さんといえば
ベストセラーの「親鸞」で、
歴史書でも、伝説でもない、
読み物として抜群に面白くわかりやすい親鸞像を書かれているし
梅原先生は
西洋哲学から仏教哲学、文学まで、もう計り知れない知の塊のような先生ですし
そのお二人の対談となると
これはもう、贅沢としかいいようのない読み物で
いったん読み始めると、
本当に面白くて、一気に読めてしまいます。
前半は
お二人の出自にまつわる話から、あちこちに話が飛んでいくのですが
後半は、グッと話が深くなり
特に
明治維新で廃仏毀釈が行われ
神と仏が分離されたあたりの話が興味深いものでした。
それまで、神さまと仏様は仲良く同居していたのに
なぜ、あの時、廃仏毀釈が行われたのか
今ひとつわからいままだったのが
この話を読んで、ああ、そういうことだったのかと納得できました。
あの時仏教を否定することで
本当は神道も否定したと、梅原先生はおっしゃっている。
でも仏像が壊されたり、お寺が燃やされたりしても
日本人の心の根底には
やっぱり、神様とか仏様がちゃんといると、私は思うのです。
たとえば
ご飯粒を残した目がつぶれるとか
食べ物を粗末にしたらバチがあたるとか
やっぱりどこかで、本気で信じていたり、恐れていたりするところがある。
草木国土悉皆成仏
草にも木にも、ありとあらゆるものの中に仏様はいるという感覚は
実際言葉にすると、ちょっと違和感も感じるけれど
漠然とそういう気持ちは、やっぱりあると思うんです。
豚とか牛とか動物を食べることだけが殺生なのではなくて
米にも野菜にも、みんな生命があって、
その命を頂いているのだと〈意識していないまでも〉、心のどこかで思っていて
そこには、人間の思いを越えたものが、確実に存在しているような感じ。
仏教の本場インドでも
物性が存在しているのは動物までで
植物に仏がいるという感覚は、日本人の独特なものだそう。
肉や魚だけでなく
米や野菜にも、頂きますと手を合わせる感覚
これこそ、日本人の根底に流れている、独自の感覚。
そのことを思う時
手をかけて、調味料で味をつけて、食材を自分の思い通りに操るようなやり方ではなく
できるかぎり手をかけず、食材の美味しさを引き出すお手伝いをしているという
料理の仕方が、やっぱり日本人には合っているし
最終的には、そういう料理にほっとしたり
そういう料理を求めるようになるというのも
結局は、心のなかにそんな感覚が存在しているからじゃないかと思えてきます。
人と食材とを並べた時に
人の知恵や技術が食材を操るのではなく
あくまで食材の力あるきで
人はそれにほんの少し手を貸しているに過ぎない、と。
人は自然の支配者ではなく、畏怖の念を持ちながら共存しているのだと。
時に、忘れてしまいそうになることもありますが
その感覚を忘れないようにせねば
特に料理する人間として。
また子どもの親として。
それにしても
この本は、知の塊と言っても過言ではないお二人の対談ですから
本当に内容が濃いのですが
年をとっても、好奇心を持ち続けて
あれもやってみたい、これもやってみたいと、思い続けられたら
なんて楽しい人生なんだろうと、思える本でした。
梅原先生は
五木寛之さんに対抗して、これから親鸞を書くと宣言されてますし
そうなると、哲学書を書いて死にたいと思っているのに
哲学書を書くのが90歳を超えてからになるから
エライコッチャ、ボケられへんとおっしゃってる。
この無邪気さが、また、なんともいえず、人を引き付けるのです。
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