家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
「母性」
(湊かなえ著 新潮社)
を、読みました。
湊かなえさんの作品って
後味の悪さでは定評があるし、
あまりドロドロしたサスペンスものって、本質的に好きでないので
話題になっているのは知っていても、ずーっと嫌厭していて
でも、このところ娘が
湊かなえ原作のテレビドラマにはまっていて
(「高校入試」これは終わりましたが「夜行観覧車」が始まりました)
「告白」はどうしようない救いようの無い話だったが
ここのところはそれほど後味も悪くないと言っていたこともあり
更に、本の帯には
「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて書き上げました」
とあり、
母性というタイトルにも惹かれて、読んでみたのでした。
物語は一人の女子校生の自殺を知らせる新聞記事から始まります。
女子高生の母親の言葉
「愛能う限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて信じられません」
母親の手記と娘の告白で物語は進み
母親の生い立ちや、娘の成長の様子
そして家族の過ごしてきた生活が
その中で、次々と明らかにされていきます。
母親の愛情いっぱいに育ち
その母の愛を疑うことなく大人になった女性
それが、この本に登場する母親。
母親が好きで
母親が自分の生きる目標で
母親の子供である自分という、その関係性が自分の中では最高の理想図。
その女性が母親になった時、
娘という立場から、母親という立場に、うまくスライドできるのか。
彼女は自分が育ったように、娘を育てようとするが
娘との関係性を気づいている途中で
心の支えとなった母親をなくしてしまうことで
娘のままでいたいという気持ちと、母親として娘に接する現実に
うまく折り合いを付けられなくなる。
自分と母親との関係を、自分と娘との関係にも求めてしまうのです。
けれど、娘は母親とは違う人格です。
娘は母親の愛情を充分わかっているものの
母と娘の関係性は、同じであるはずがないし
(ドラマの伏線として、嫁姑関係なども複雑にからんできます)
娘は自分が母親を助けて、母親の力になりたいと願うのだけれど
それが微妙にすれ違って、空回りしていくもどかしさ。
この本の中で印象に残った言葉があります。
女には二種類ある。
母と娘。
子供を生んだ母親が全員母親になれるわけではない。
母性などなくても母親にはなれる。
子供を産むことによって、母性が芽生え、育っていく。
けれど、娘でいたい、庇護される立場でいたいと強く願うことで
無意識のうちに、内なる母性を排除してしまう女性もいる。
この物語の大きなテーマは、この辺りにあるのだと思います。
けれど、無意識のうちに排除してしまった母性は
果たして全く育っていなかったのか
無意識に排除しているにもかかわらず、母性だと信じていたものは
たしかに大きな勘違いの中で大きくなって
親子の心のすれ違いを起こしてしまう危険があるけれど
それでもそこには、やはり母性と言っていいものがたしかに存在しているように私は思うのです。
優しくて、親切な子供になってほしい
頭が良くて、いい学校に入って欲しい
礼儀正しくて、ひとに迷惑をかけない子供になってほしい。
それは、母親ならだれでも子供に願うこと。
けれど、純粋に全てひたすら子供のことを思っているかというと
そういう子供を持っている自分が好きという
自己愛的な感情も確実にそこに含まれている。
母性と自己愛は危ういバランスの上に成り立っている表裏一体の感情で
それが、ホンの少しどちらかに傾くだけで
母娘の感情と関係は、全く違うことになる
そんな危ういもののような気がします。
だから、娘の物語に出てくる母親の行動は
母親になりきれず、娘のまま母親になってしまった女性の悲しさという風には思えず
やっぱり、根底のところには温かい母性を感じるのでした。
彼女が娘に繰り返し作った料理が
ビーフシチューや、クリームソーススパゲテイやアップルパイではなく
お飯と味噌汁を中心に
三色丼やハンバーグやホットケーキであったことも
それを物語っているように思うのです。
物語の最後に
大きなどんでん返しがあります。
一瞬、えっ!っという感じで、頭を整理する必要が有るどんでん返し。
後味は決して悪くありません。
母親になりたての人も
母親になって、久しい人も
もう一度、自分と子供、自分と母親の関係を見つめなおすきっかけになる一冊です。
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