家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
ちょっと前の天声人語に気になることが書いてありました。
幼稚園の講演会で、若いお母さんが
「お茶って、自分の家で作れるんですか?」
と質問したというのです。
その女性、子供の頃からペットボトルのお茶しか飲んだことがないので
「お茶をいれる」と言う言葉も知らなかったらしい。
更に、料理教室で
急須を「これなんですか」と聞く受講生がいるという話があり
市販のお茶は便利でいいけれど
文化や歴史をまとう「お茶」と無縁に子らが育つのは寂しい
と続いていく。
確かに、
私くらいの年代の人間だと
そもそもペットボトルのお茶というものなんかない時代に生まれているから
大きなやかんで麦茶を沸かしている光景とか
(私なんか田舎育ちなので、井戸水でやかんごと冷やしている光景とか)
あるいは、こたつの上に急須と湯呑とみかんとせんべいなんかが並んでいる光景とか
そういうのが原風景として、しっかり身体の中に刻み込まれているけれど
生まれたときから、ペットボトルのお茶を飲んでいる世代にとって
お茶といっても、
イメージするお茶の種類もいっぱいあって
ウーロン茶とか、ジャスミン茶とかを、家で作れるのかと思っても
仕方ないといえば、仕方ないのかもと思ってしまう。
私自身
普段ごくごく飲むお茶は、一応やかんで沸かして常備しているけれど
急須でお茶を入れているかというと、
美味しいおまんじゅうがあるとか
お客さんの時とかしか、なかなか入れなくなっています。
理由としては
お茶以外にも、コーヒーとか紅茶とか
飲み物の選択肢が他にもあるということと
(こういうのって、急須を使わないから、簡単に入れられますよね)
ゆっくり日本茶を入れるような、心の余裕が無い。
お茶って、沸かしたての熱いお湯で入れると渋くなるから
ちょっと冷ましてからゆっくり入れる必要がありますよね。
そういうところが日本の文化だったり、日本人の精神性と繋がってたり
それがお茶を飲むってことなのかもしれないし
そういう時間を持つことが大切で、すごくいいことはわかっているけれど
日頃バタバタと過ぎていく時間の流れのなかで
そういう時間を見つけることが、ちょっと難しい時もあります。
その心の余裕が無いってことが
本当は問題なんだってこと、わかっているんだけど。
天声人語の最後は
コンビニエンス(便利)と引き換えに大事なものをこぼして歩いているようで
立ち止まりたい時もある
という言葉で締めくくられていました。
お茶だけの話じゃないですね。
おにぎりだって、サンドイッチだって
コロッケだって、シュウマイだって、
ドレッシングやめんつゆだって
色んな物が、作らないでもいいようになって
別に買うことがいけないとは思わないけれど
時々は、立ち止まってみるのも大切かも。
便利になることは悪くないけど
便利と引き換えになくしたものがないかも、時々は考えないとね。
以前、
コンビニおにぎりみたいに、
かぶりついても崩れないおにぎりの握り方を教えてください
と言われたことがあって
その時私は
かぶりついた時にホロホロ溢れる柔らかさが
家で作ったおにぎりの美味しさだと思います、と答えたことがありました。
家で食べるおにぎりって、
そうじゃないですか?
形が不揃いで、ゴツゴツしていて、ポロポロくずれる。
でも、なぜかすごくわくわくして、しみじみおいしくて、なんか優しい気持ちになれる。
便利さと引き換えにこぼして歩いているもの
こぼしたっていいと思うものと、こぼしてしまったらもったいないと思うもの
こぼした代わりに得られるものが、もっと大事なものだと思えるもの
その選別は人によって違うとは思うけど
こぼしたものを時々は立ち止まって吟味して
もったいないと思ったら、時に拾い集めてもう一度見なおしてみる
そういうことも大事かもね。
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