家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日は「聖者の食卓」という映画の上映会に行ってきました。
この映画は、インドのシク教の総本山、黄金寺院で
毎日10万食もの食事が無料提供される
その様子を映し出したドキュメンタリー映画。
もともと、カースト制度のあるインドでは
階級の違う人が、同じ場所に並んで同じものを食べるということはないのだけれど
シク教は、カーストに関係なく平等であれという教えを説いている宗派で
この黄金寺院の中にある無料食堂では、老若男女、階級、人種の分け隔てなく食事をする。
一回に入れるのが5000人
食器をもらい、順番を待ち、
その一方で、いろんな人たち(無償)が協力して、
ニンニクの皮をむき、玉ねぎを刻み、しょうがを刻んで、料理の準備をする。
料理を作る人、料理を配る人、
食事の順番を待つ人、食器を配る人
お代わりをする人、食べ終わって食器を返す人
鍋を洗う人、食器を洗う人、水で床を掃除する人
すべてが混とんとしているのに、規則正しく、
合理的なんだけれど、作る人と食べる人の区別がなく
なのに、不思議な秩序がある。
それらが、まったくセリフのない映像だけで、淡々と映し出されていく。
見終わった後
なんだか、不思議な気持ちになって、感想とか感動とか、そういうものを超越した
言葉にできない感覚に襲われて
いったいこれはなんなんなのか、頭でも感覚でも理解できなくて
正直戸惑ったとしか言いようがありません。
例えばこれが日本だったらどうだろう。
料理を提供する側と提供される側
食べる人と、作る人と、片付ける人、
という風に、見えない区別がたくさんあって
それらが混とんとまじりあうことは、ないはず。
ところが、この映画の中の食事風景は
階級の差別はもちろん、そういう見えない壁もなく
また、始まりと終わりもない。
人が並んで、食べて、食器を返し
返された食器は、どんどん洗われ、また次に並んだ人に手渡される。
食器を洗う行為は、食事の終わりであり、始まりでもある。
同様にカレーがぐつぐつ煮えている横で
大鍋を洗っている人がいて
鍋を洗うことは、カレー作りの始まりでもあり、終わりでもある。
作って食べて片付ける
それを朝も夜もなく、24時間、600年間、延々と繰り返されてきた。
そう思うと、ぞくぞくするような感情が体の内側から湧き上がってくる。
そうか、般若心経の教えは、こういうことなのかもしれない。
そう思ったら、なんだか、全身に感動が駆け巡ってきた。
不生不滅不垢不浄不増不滅
料理を食べて、料理がなくなり、人が入れ替わり、料理がまた作られ
命が永遠につながっていく。
色即是空空即是色
食材が料理になり、人が食べれば料理がなくなる。
人は年を取り、子供は成長し、やがて人も死んでいなくなるけれど
料理は作り続けられる。
これが食べるということ
命がつながっていくということ。
料理を作り、食べるということは
命に一番近いところにある。
************************
いろんなことを考えさせてもらった映画を見た後は
家に帰って
先日買ってきた、紅茶とスパイスでチャイを入れてテイータイム。
なんかちょっと甘いものがほしくなって、
食べ残したグラノーラを入れたクッキーを焼いてみました。
そば粉 50g
てんさい糖 50g
ベーキングパウダー 小1/2
卵 1個
オリーブオイル 大3
グラノーラ 100g
全部混ぜたところに、チャイ用のスパイスも入れ
あとは、天板にスプーンで落として焼くだけ
いろんなものが入っているグラノーラとそば粉
スパイスとオリーブオイル、ミックススパイス
混とんとしているのに、不思議な調和
滋味のある味わいのクッキーができました。
なんだか、大きな宇宙の中で
自分の存在のなんと小さいことかと思うけれど
それでも、生きていることは尊い。
こんな私の命でも、尊い。
コメント