でいりいおくじょのBLOG

2023.07.30

「食べる」と「料理する」

ちょっと前、若松先生が日経の連載の中で

料理研究家の辰巳芳子先生と話をされた時のことを書かれているのを読みました。

 

その中で

「食べる」を「読む」に、

「料理する」を「書く」に置き換えることで

全く齟齬を感じずに対話が出来たという話が書かれていて

ああと思いました。

 

実は、私も以前から

「食べる」と「料理する」は

「書く」と「読む」に似ているなあと思っていたんです。

 

ただ、私の感覚の中では、相似というより裏表、あるいは対極のような感じなんです。

 

例えば

「読む」と「書く」はどこまでも孤独な営みで、静の世界であるのに対して

「食べる」と「料理する」は、人を求め、人とつながっていく営みであり、

動の世界だと私は思っています。

 

一人で食べる場合でも、それは誰かが作ったものを食べていたり

美味しいものを食べれば、あの人にも食べさせてあげたいと思ったり

あの人と一緒に食べたいと思ったり

誰かと食べた味を思い出したり

常に、誰かがそばにいる。

 

料理する場合も同じで

誰かのために作ったり、誰かを思いながら作ったり、あの人に食べさせてあげたいと思ったり

 

「食べる」「料理する」は

孤独とは真逆にある、人とつながろうとする動の世界だと思うんです

 

また

「読む」と「書く」は

目に見えない大いなる力のようなものにつながろうとする営みであり、

その中心にある自己というものを、深く掘っていくことだと思うんですが

 

「食べる」と「料理する」がつながっているのは

生物学的な「身体」や「命」。

 

生きるために食べるのか、食べるために生きるのか

なんて、言ったりしますが

まさに、食べるってそういう事だと思うんです。

 

なので、

「食べる」と「料理する」は「身体」とつながって

三角形が出来上がる。

 

そして、その三角形の中心には心があって

 

美味しいとか、楽しいとか、うれしいとか

そういうことをわかり易く感じていて

 

それは深く掘っていくというよりは

外に向かってどんどん広がっていく感じ。

 

私のイメージとしては、そんな感じ。

 

こういう風に考えると

「書く」と「読む」は

自己という未知なるものを知るために

内面に入っていく作業であり、

永遠というものにつながろうする営みなのに対して

 

「食べる」「料理する」は

自分の身体や命とつながっていて、

終わりへと向かう営み、

あるいは終わりを知りつつ今を愛おしむ営みだと言えるかもしれません。

 

こう考えると

「読む」と「書く」

「食べる」と「料理する」

は対局であり、裏表であるといえるとは思うんですが

 

でも、裏表でありながら、相反するものではなく

実はメビウスの輪のようにつながっている気がするのです。

 

違うのに、つながっている。

別々のままで、つながっている。

 

「食べる」「料理する」側にいる私が

「読む」と「書く」という事に、これほどまでに心惹かれているのは

確実につながっているからなのですね

 

これを書きながら、気付きました。

 

2023年7月29日とら

へえ~~~~。

 

 

コメント

  1. 洋子 より:

    先生のメビウス論、すごく分かりやすく理解できました。
    世界はべつべつのまま、つながっている。
    自分に関係ないことなどないのだなと気づかされました。
    ありがとうございます。
    猛暑が続きますが、ご自愛くださいますように。

    1. 奥薗壽子 より:

      コメント、ありがとうございます。
      読んでくださった、とっても励みになります。
      優しい言葉にも感謝感謝です。

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