家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日は、神秘哲学の講座です。
昨日の夜福井から帰ってきたこともあり
けっこう身体は疲れていて
おまけに講演疲れで、声が少しかれていて
これは、教室に行かずにzoom受講にした方がいいかもって思って
ぎりぎりまで悩んだんだけれど
やっぱり、教室に出席しました。
なんかね、この講座は
言葉を全身でシャワーみたいに浴びることで
体の中に入ってくる感じがしているのです。
さてさて、今日の講座なのですが
いよいよ、訳の分からないところに入ってきました
その、訳わからないってことが大切で
訳わかんないけど、
そこに何かがあるという事を感じられることが大事みたいです。
言葉にしなかった事
言葉にできなかった事の中にあるものを
いかに感じることができるかって事。
これを聞いて思ったことは
なんか、京都っぽいなあって事でした。
京都人って、全部言わないんですよ
7割くらいで止める人もいれば
半分も言わない人もいる。
なんで?
って思うかもしれませんが
それは、京都人のDNA。
だから、京都以外の人から見れば
京都の人はわかりにくいとか、意地悪をしているとか
という風に見えることもあるようですが
そうじゃない。
けっして、意地悪じゃないです。
全部言ってしまうことは
逆に、はしたないとさえ思って
全部言うことが、できないんです
そういう風な土地柄というか、文化圏なんです。
っていても
京都以外の人が、全部言っても、
ああこの人、全部言わはったわ~~なんて思いませんからご心配なく
それは、京都人どおしでだけ通じる呼吸みたいなものなので。
だから、常に、相手が言わなかったことを察する力も半端ないです。
そういう意味では
京都は察しの文化なんで
子供の頃から、人の言わなかったことを察する力はめちゃ鍛えられていると思う。
30年近く前に東京に来た時
それがわからなかったから、結構苦労しました。
思っていることを全部言えないから
全然わかってもらえなくて
なんで察してもらえないのかが分からなくて
察してもらうことを期待してはいけないという事が分かった後でも
京都人気質が根強くあるので
こうしてほしいとか、自分はこう思いますとか
伝えることが、全然できなかったです。
でも、考えてみたら
京都って、京都にずーっと暮らしている人が多いから
言わなくても分かり合える部分というのがかなりあり
だからこそ、察しの文化が成立するわけで
東京の場合
いろんなところからやってきた人が暮らしているので
まあ、行ってみれば異文化の集合体みたいな場所ですから
言わずに察してくれと言うのは
基本成立しない場所なんですよね。
価値観の違う人どおしが分かり合うには
まずは、きちんと伝える所からしか始まりませんから。
そんなわけで
今では、まあまあできるようにはなりましたが
いや、今でも苦手です、たぶん。
きちんと言語化して伝えることは
間違いとか、勘違いを少なくするという意味で大事です。
でも、言わなかったことを察する力も
やっぱり大事なんじゃないかと思ったりもしています。
京都人だからですかね。
哲学を理解するためには
非言語的なものを理解する力が、どうしても必要になるようです。
京都人の、この察しの能力が役に立つのか
今のところ、まだわかりませんが
役に立つような気もしないでもない‥。
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