家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日はシモちゃんの講座です。
シモちゃんの講座は正式の名称は
深く感じ、考え、そして表現するための思考と表現
なかなかすごいタイトルです。
この講座も課題があって
一週間前に、一応エッセイを提出したんです。
その課題のテーマがめちゃ難しく
今回も、あーだこーだと、かなり考えたのですが
描きあがったものは、まったく大したことはなく
自分で読んでも、なんだこりゃ?みたいな文章で
なんでこうなるかなあ~~って感じです。
で、
書けない事
書けなかったことに
自分では、けっこう絶望的な気持ちになっていて
教室に行くのも気が重くなったりしていたんだけれど
いや、それは違うんじゃないかと思い直したの。
というのも、
今日の講座の前半は、彫刻家の船越保武の話だったんだけれど
その中で
一か月以上かかって完成させた大理石の頭像を
いつもよりもずっとよくできていたのに
こんなものはだめだと粉々に壊したという話があって
それはすごく考えさせられました。
それを売れば、一か月は食べていけたのに
それでも壊さずにはおれなかった。
この話は、講座が終わってからも
ずっと頭の中に残り
その時の情景やら、その時の気持ちを考え続けました。
私なんか、全然レベルが違うから
同じように考えるのは、本当に申し訳ないんだけれど
なんか、サクサクとうまくレシピが出来上がったりすると
逆に不安になってきて
そのレシピが、すごくいいレシピに見えても
全部なかったことにして
違うレシピを考えること、あるんです。
上手く、できすぎると、逆に、これではだめだと思ってしまう。
って言うか、実際ダメなんですよ。
躓いて、躓いて、
ああでもない、こーでもないと考えたレシピの方が
シンプルで、一見何も考えていないように見えるんだけれど
実はすごく良いレシピだったりするんです。
で、その時に没にしたレシピは
何年もお蔵入りして
ある日、突然、陽の目を見て
新たなレシピに生まれ変わることもしばしばです。
だから、20年くらい忘れていて
ああ、あのレシピがあるやん!
って思い出すこともあります。
だから、没にしたことは決して無駄ではなく
20年くらい、ゆっくり発酵させていたって感じ。
つまり何が言いたいかって言うと
今日提出した私のエッセイも
正直、本当に全く書けていないんですが
あーでもない、こーでもない
って、めちゃめちゃ考えたんだけれど
考えた割には、上手く書けなかったって感じなんですね。
だから、結果としては書けていないんだけれど
いろんなことを、考えたってことにおいて
悪くはないんじゃないかって思ったの。
パパっと要領良く、それなりに書けたものよりも
一生懸命考えて
書けなかったエッセイのほうが
実は、自分にとっては意味があったのではないかと
そんなことを思ったのでした。
エッセイがうまく書けたとか、書けなかったとか
そういうことより
自分が、何をどんなふうに考えたのか
その道程を、振り返りなさい
なんか、今日の講座の話は
そんなメッセージが伝わってくる感じがしたのです。
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