家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日は読むと書くの教室で
西田幾多郎です。
数日前、
長良川画廊さんで西田幾多郎の書を見て
図録も丁寧に読んだし
以前、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の講座を受講して
それなりに学んだし
なんと言っても、
私の大好きな、京都の哲学の道は
西田幾多郎先生が、哲学を考えながら歩かれたことで命名されたので
とても近しい存在だし
という事で、
難しくて、分からないのだけれど
私としては、何かとても親近感を持っている方なのです。
今日は、
知と愛について
知と愛って、違っているように考えられているけれど
西田先生的には、本来同一の精神作用だと言うのです。
これ、今日の先生の話の中で、
けっこう、すーっと入ってきたんですよね。
知って言うと、知性とか知識とかって思いがちだけれど
西田先生の言う知は叡智のことなんだと思う。
情報とか、知性とか、そういうものでは測れない所に
叡智って言うのがある。
(って、偉そうに書いているけれど、よくわかっていないです、すいません)
叡智というのは、私にとってすごく大事な言葉で
子供二人を連れて東京に出てきた時、父が私に
「フィロソフィーがあれば大丈夫」と言ったんですが
そのフィロソフィーが、叡智なのです。
あれから30年たって
この教室で学ぶようになって
叡智って何かが、少しずつ分かってきました。
つまり、
優劣のない世界
比較のない世界で
目に見えないものを感じ、信じること
そういう風なことを叡智というのかなと、
自分なりに思うようになりました。
なんかうまく言えないのですが
優劣のない、目に見えない根源的な世界って
自分自身なんじゃないかと思うんです。
この、わけのわからない、自分を知るってことが
叡智ってことなんじゃないかと。
で、
自分を知るって言うことは、
自分を愛するってこと
愛するって言うのは
好きって言うのとは違って
嫌なところも全部を包み込んで愛するっていう事だから
自分を知っていくと
自分の嫌なところも、見たくないところ、隠しておきたいところ
いろんな自分を知ってしまうことになるけれど、
自分を愛するって言ういのは
そういう自分を全部愛するってことで
だから、知るって事と、愛するってことは同じ精神作用なんだと
いう事になるんじゃないかと。
なんかややこしくなってきた…。
訳わかんなくなってきたけど
つまるところ
自分を知るって言うのも
自分を愛するってことも
ものすごく難しい。
でも、難しいからこそ
自分を知ろうとすること
自分を愛そうとすること
そのこと自体に、すごく意味があるのかなって思うの。
そして、ここを乗り越えずに
誰かを愛するって、すごく難しい気がする。
うん、自分を愛せないのに、誰かを愛するなんてね。
だからね、
今日学んだこと。
自分のことをわからない分からないって思いつつ
自分を知る努力をし続ける事
自分を少しずつ分かっていくうちに
少しずつ、自分を愛せるようになるってこと。
この試みが、きっと大事なんだと思う。
そして、
自分以外の誰かも、きちんと愛せる人になりたい
そう、それが最終目標で
それを願う。
コメント
西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」と言うのは、学生時代に考えて、ボクは結局どう意味か分からなかったけれど、今回の知と愛についての奥薗姐さんの解釈は腑に落ちました。
自分自身を知り、悪い所も嫌な所も受け入れて、自分を好きになる事が知でもあり、愛でもある。
又自分自身を愛さなければ、他の人を愛する事は出来ないという話にも共感しました。
ボクの好きな長渕剛さんの歌「しゃぼん玉」の歌詞に「もっと俺は俺でありますように」というのがありますが、そう感じれる事が出来るのが、叡智であり、愛でもあるのかなぁとボクは感じました。
久しぶりに哲学的思考をして知恵熱出ちゃう😵
それでは失礼致します🙇♂️足立区一のお調子者f@
うれしいコメント、ありがとうございます。
長渕剛さんの「シャボン玉」聞きました。
熱くて、いい歌ですね。
もっと俺は俺でありますように。
自分が自分でいられるって、すごく大事ですよね。
特に、今の時代、このメッセージはすごく意味があると思いました。
いい歌を教えてく頂き、感謝です。