家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
昨日の、読むと書くの教室で
エッセイ集を編むという話があり
私は、エッセイ集なんて作るつもりは全くないので
関係ないな~~って思いながら聞いていたのだけれど
その中で、妙に心に残っている言葉がいくつかありました
その一つが「手放す」という事
エッセイを書き
それをエッセイ集にすることで
書いたことを手放せるという。
言っていることはわかる。
この教室で学んでおられる方の中には
文章を書くことが目的の方も多くおられるので
そういう方たちは、
いったんそれをエッセイ集という形でまとめて手放すことで
次のステップに行ける
という事は確かにあると思う。
けれど、私の場合は
書くことで、自分の過去と向き合って
書くことで、それを一つ一つ整理して
書くことで手放しているつもりなので
それをわざわざエッセイ集にしたら
せっかく手放したものを、大事に仕舞い込むような気がして
だから、私はエッセイ集というのは、ないなって思っているのです。
そんなことを考えて家に帰ってきて
今日の講座の話を、もう一度つらつらと思い返していると
急に気になり始めたことがありました。
講座の中で
小林秀雄の「感想」と「牡丹」というエッセイの話があり
その時は、何も考えずに、その話を聞き流したんだけれど
家に帰ってから
ああ、そういえば、そのエッセイ、読んだことがあるわ。
ってことを思い出し
そのエッセイが載っている本も持ってるわ
ってことも思い出し
慌てて読み直してみたのでした。
「感想」の方は
自分の過去の作品に愛着を持っている人は多いけれど
自分(小林秀雄)は、全くそんなことはなく
あるとしたら、不満だけだ
という内容で
ああ、やっぱり小林秀雄はそうだろうなって思った。
書いても書いても納得いかず、どんどん書いて前に進む
そうでないと、あれだけどんどん書けないもの。
「牡丹」の方は
獅子文六の話で、死期を悟った獅子文六が
「それならいっそ、自殺して死んでしまいたい」と思うんだけれど
大好きな牡丹の花を見ながら
「せっかくここまで生きたんだから、自然に死ぬまで辛抱して生きよう」
と思い直す話で
これを大好きな牡丹に話し、
他の誰にも言わず文章に書いて
こっそり引き出しにしまい
友人や奥さんへのお別れの言葉にした
というような内容。
(そのエッセイは、獅子文六がなくなってから奥様によって見つけられました)
この2つのエッセイを読んで
茨木のり子さんの、詩の箱の事を思い出しました
ご主人を亡くされた後、ご主人にあてて書いた詩を、箱に入れてしまっておかれたんです。
誰に見せるわけではなく、
亡くなったご主人に手紙を書くみたいに書かれた詩で
ご主人に対する恋しさと、愛情があふれているんです。
(茨城のり子さんがなくなられた後、詩集「歳月」になります)
獅子文六さんが、こっそりエッセイを引き出しに隠したのと
なんかすごく似ているなあと思ったのと
そう言う感じで、
エッセイを残すの、なんかいいなと思いました。
自分がなくなった後
誰かが、自分の生きたことを受け止めてくれる
そういうの。
うん、たしかに悪くない。
エッセイ集を編むというと
何か、すごくたいそうな事のようで、
私にはとてもとても、って思ってしまうけれど
自分が生きた証として、ことばを残していく
そういう、やり方もありだな。
そんなことを思いました。
イヤーブック
一年に一冊、そういうのをまとめてみるの
来年はやってみようかな。
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