家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
病気が原因で、口からものが食べられなくなった時
選択肢の一つとして、中部などで胃に直接栄養を送り込む胃ろうという方法があります。
ここ5年ほどで、これを使う延命法が半減してというのを新聞で読みました。
胃ろうは、直接チューブで胃に食べ物を送り込むので
誤飲による事故を防げることもあって、使われることが多かったようですが
病院側の問題や、他の方法へ移行などいろいろあり、使われる件数が減ってきているようなのです。
けれど、食べるということは単に栄養を摂ればいいというものではなく
口から食べることで、生きる力や食べる喜びを感じられることもあり
胃ろうにすることで、一気に生きる意欲がなくなるというケースもあるというのを読んだことがありました。
なので胃ろうについては、もともと興味があったんです。
実際問題、口からものが食べられなった時、自分ならどうするだろうと考えることもしばしばありました。
そんなわけで、いろいろ調べていたところ
とてもいい本に出合いました。
「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」(花戸貴司著 國森康弘写真 農文協)
著者は、滋賀県東近江市永源寺にある診療所の医師
この地域は人口5800人で高齢化率30%というところです。
中心部には、郵便局やスーパーはあるものの
ほとんどが田んぼや畑などの自然豊かなところで、
ここの住む人たちは、お米や野菜を作って日々暮らしています。
診療所は1つしかありません。
著者はこの診療所で、地域の高齢者や病気の方々と向き合っていろいろな話を聞き
ご飯が食べられなくなったらどうしたいかを、患者さんに問いかけています。
著者も、ここに赴任された最初は、きちんとした病院に行って、できる限りの治療を受けて(点滴と栄養治療とか)
命を長らえさせることが医師としての仕事だと思っておられたのですが
そのうちに、ここで暮らす人たちと接していると
最高の医療を受けることが必ずしも幸せとは言えないと思い始め
入院して、病院の手厚い介護を受けることと
家族に囲まれて、住み慣れた家で過ごすことと
どちらが幸せか、どちらを望むのかは患者さん自身が決めるべきことだと思いはじめます。
その人が望むような生き方を最後までさせてあげること
そのサポートをすることが医療の使命だと気づいていかれるのです。
そして、それは医師だけの力でやれることではなくて
家族を含め、たくさんの人の力、地域のネットワークなどがあってこそ実現できるということに気づいていかれるんですね。
この本には、いろんな人たちの最後の迎え方が書かれていて
長く生きることよりも、その人らしく最期を迎えることこそが幸せなのだなあと思える話がたくさん書かれています。
大切なのは、自助、互助、共助、公助 だそう。
つまり、自分で自分の身体を大切にし、趣味や仕事や役割を持って生きること
家族や友人や近所どうして、お互いに助け合うこと
社会保険などで、助け合う制度化がされていること
行政がきちんと面倒を見てくれること
医療だけに頼るのではなく、自分と地域とのつながり、制度としての保証、それが大切だそう。
私自身、どんなふうに生き、どんな風に最後を迎えたいんだろうということは
いままでも漠然とは考えていて
私の答えとしては、延命治療は一切してほしくなく
ご飯が食べられなくなったら、そのまま素直に命の終わりを受け入れたいと常々思っていました。
でも、この本を読んでみて、
そんな風に自分の最期を迎えるためにやっておくべきことがあることということを、知ることができました。
そのために、やはり、日ごろから、家族でも地域の人でも友人でも
とにかく人と繋がっていることは大事ですね。
そして何かをやってもらう事ばかりを考えないで
若いうちは、誰かのためにできることはお手伝いさせてもらったり
何かに参加させてもらったりも大事。
いや、これは、都会に住んでいると、なかなかそういうお付き合いもないし難しいけれど
意識的に、地域とつながる方法を考えてみようと思いました。
ご飯が食べられなくなったら、どうしたいか
延命治療をするのか、しないのか
正直、私自身、まだ死を考えることは現実味がありませんが
でもまだまだ、死と無縁なくらい元気なうちに
家族の中で話をしておくというのも大事かもと思いました。
コメント
先生、おはようございます。
ポストイットが沢山貼られていますね。
この本を読み、沢山考えられたのですね。
どこが入り口なのか分からず、出口もなければ答えも分からない、そんな、ゴールのない問題ですね。
ひとつだけ分かりました。
“ケア”、優しい言葉ですね。
先生、今日も一日健やかにq(^-^q)。