家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
子供が小学生の時
私と息子と娘で沖縄の無人島で過ごしたことがあって
私と娘は1週間で帰ってきたんだけれど
息子は、そのあとも一か月近くそこで過ごしてから、帰ってきました
無人島では、時計がない
よって時間の感覚がない
やらなければならないことがない
よって、やりたいことはすべて自分が決める。
守らなければならないことは、ごみを出さないこと
自然と人が、一緒に仲良く生きるために
それは、最も大事なことの一つでした。
東京に帰ってきたとき
見える景色が全く違っていることに気づきました。
何か、とても窮屈で息がしにくくて
いったいこれはどうしたんだろうと思いました。
けれど、いつもの日常が戻ってくると、それは次第に薄れていって。
ところが一か月近く無人島で過ごしてかえってきた息子は
その違和感をずっと持ち続けました。
一般的な普通と
息子の考える普通の間に、大きな距離ができていて
一般的な普通というものに、無意識で囚われていた私は
自分の感覚に息子を近づけようとして
おたがいにストレスを感じることになりました。
でも、
あの時の息子のあの感覚と
あの時感じた私の中のもやもやは
本当は、正しかったのだと気づきました。
「答えより問いを探して」(高橋源一郎著 講談社)
この本は、
和歌山にある「きのくに国際高等専修学校」というところで
高橋源一郎さんが授業された言葉を本にしたものです。
この高校の下に
きのくに子供の村学園という学校があって
これまでの国の教育の在り方を憂い、まったく新しい学校を建てたいという強い思いで
一つ一つ困難を乗り越えながら、出来上がった学校です。
この学校には、多くの学校にあるものがありません。
たとえば、
学年とか、授業の教科の名前とか
更には
チャイムも、試験も通知簿もなく
先生と呼ばれる大人もおらず
廊下も教室も、入学式も卒業式もありません。
こう書くと、ええーっと思うけれど
でも、よくよく考えてみたら、いったいいつからそれが当たり前になったんだろう。
みんな、同じようにきちんと
ステレオタイプの人間が大量生産されていく教育。
私自身、型にはまることに反発を抱いてきたのだ
という事を思いだしました。
いい成績を取ることとか
いい学校に入ることとか
そういう、箱や、物差しに収まって安心することに対して
心の中では疑問を持っていたことも思い出したのでした。
けれど、だからと言って、そこから外れることはできない自分がいて
当然のように、子供もそこから外れないように育てようとしたんです。
今思えば、それに強い反発をした息子の気持ちの方は
全然間違っていなくて
型にはまりたくないエネルギーは、大したものだったと思います。
あの頃心に渦巻いていたもやもやは
私の内は、ずーっとくずぶり続け
この本に出合って、やっと自分の心の一部として認められた気がします。
この本のタイトルにあるように
答えを探すのと、問いを探すのでは、まったく方向が違います。
答えを見つけることは
まず、外堀があって、その中から最も正しくて適切なことを見つけることだけれど
問い探すという事は
まず、自分の興味や疑問があって
そこから、広がる世界は無限です。
問う事には
無限の可能性や希望や喜びがある。
この本は、子供に向けての授業なのですが
大人の私にとっても、本当にたくさんの刺激をもらいました。
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